大学1年生のとんでもない勘違い

岩熊哲夫

2009年某月吉日


大学1年生のとんでもない勘違い

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大学は大きく変わってきているのは事実だが,いい方向にというわけではなさそうだ。 例えば,今全学教育と呼んでいる教養教育が事実上無くなったことが挙げられる。 また,ますます大衆化したことによる学生の気質もかなり変わってきている。 そのような変化に伴い,大学1年生の生活はパラダイスになっているようだ。 よって「早く専門科目を・・・」という言葉も出てくるのではないか。 わけのわからない人文科学の授業や,難しい文系の本を読まないといけない授業は 取らないでいいようになった。いや,授業内容とは必ずしも関係無いたくさんの 面白い本を紹介してくれる先生がいなくなった,あるいは,そういう 魅力的な講義が無いと聞く。 教養を教える教員を差別し,またそういった教員には教育の意欲も 無くなっているように見える。 必要単位数だけを好きな科目で取ることができる今の大学は, もはや最高学府と呼ばれるような場所ではなくなっているように感じる。 学生だけではなく教員も駄目になってきている。 そんな中,とても気になる点を列挙してみた。

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授業中に理解できないのは先生が悪い: 大学の特に専門科目は 復習無しには理解できないのが普通だ。定理や理論・数式等を すべて「自分の言葉に翻訳し直して頭の中に整理する」という『復習』が 必要になる。 よくない言い方だが第1著者の親族の言葉を借りると, 高校までの教諭は教え「諭す」のが仕事だが, 大学[准]教授は教え「授け」ればいいと言うこともできそうだ。呵呵。

実は,ゆとり教育以前から初等教育のレベルが低く(易しく)なる一方で, 大学を卒業する時に求められるレベル(例えば,卒業論文の内容や 就職先が求める能力等)は下げるわけにはいかない状況,というよりも, どんどん上がっているのが現状だ。 したがって,専門科目に進むにつれて急に内容が難しくなることが 避けられない状況にある。 それでもなお,卒業論文等で行う研修の内容を理解するには, 学生さん自身の独学が必要不可欠になってしまった。 大学を卒業するということはたいへんなことだという覚悟で 勉強をして欲しい。

板書が多過ぎるから要約プリントを配って欲しい: 概要・要約を プリントで配っても,特に最近の学生さんは授業中の 口頭説明をメモしないので,プリントをあとで見ても何が書いてあるかすら 理解できないだろう。やはり板書を写して,その写したノートの行の間に 復習で自分の言葉にしたメモを書き込む等して補足して初めて理解につながると思う。
先生(クラス)によって難易度が違うのはおかしい: 全学 教育1も含めて 大学教育には,いわゆる指導要領の ようなものは存在しない。それぞれの先生が,それぞれの考え方で 一番いいと思う方法で教える。 教科書の検定も無い。 ほとんど同じ題目の教科書がたくさん(ひょっとすると大学の 数ほど)存在することからも,このことは明らかだ。 したがって,先生と波長が合う人には わかり易いが,そうでない人には難しくなってしまう。

やはり復習をして,自分の言葉に翻訳することが重要だ。 あるいは他大学の別の先生による同種の教科書を読むといいかもしれない。 難しい授業内容については,演習室等でより多くの友人と語り合おう。 教えることは理解度を高める。 教えてもらって自分の手を動かせば, もしかしたら理解できるかもしれない。 宿題のヒントを友人に教えてもらうときも,単に写しただけだと 身には付かない。必ず自分の手(と頭!)を動かす必要がある。

また,すべての先生がオフィスアワーを設定しているから, 積極的に質問に行こう。予約して時間を確保してもらえれば, たいていの先生が親切にいろいろ助言をくれるはずだ。 授業以外のことも話してくれる先生も多いと思う。

難しい必修科目の成績が悪くなるのは嫌だ: 誰でも 得意不得意がある。そして大学教育における理解度は,まさにその 学生さんの実力だ。試験の成績がよくても本質を理解しているとは限らないし, その内容は一生その人には何の影響も与えない場合もあるだろう。 否,ほとんどの科目でそうかもしれない。 逆に何も理解できなかったし成績も最低だったが,就職して問題点を 見つけてもう一度勉強してみると, その科目の内容が大きな成果につながる場合もあるかもしれない。

高校までの成績等つまらないプライドは捨てて,復習によって 理解度と知識を増やそう。 奨学生の選抜等に必要悪として成績を使いはするが, 研究室配属決定等にまで成績を使う必要は無いと思うし, 社会に出たら小学校以来の成績なんて何の役にも立ちはしない。 あるいは成績成績と言っている人はまともな人間にはなれないだろうと感じる。 少なくとも第1著者はそういう人が嫌いだ。

力学数学は暗記科目だ: 全学教育科目の半分くらいまでは 基礎の基礎だからそうかもしれない。しかし専門科目はそうではない。 理屈の裏にある仕組みや考え方を身に付ける必要がある。 公式の使い方を覚えるよりも,どうしてその公式が使えるのか,使わないと 解けないのか理解する必要がある。
クイズや宿題・試験の正解を教えてくれないのはよくない: 大学で 出される課題の答は友人に聞けば教えてもらえる。 ただし,その友人の答も満点とは限らない。 しかし,その中から問題の本質とそれを解こうとする方法を 自分の言葉で模索するのが,大学での勉強だ。 特に最近は答を教えるとそれを覚えようとする学生さんが多くて困っている。 覚えたものには本質が含まれていないから応用できない。 手を動かして自分の言葉で頭の引き出しに入れたものは応用が可能だ。 たとえそれが間違っていたとしてもである。 第1著者が留学していたとき同室のアメリカ人の後輩が宿題について質問してきた。 しかし彼は自分の考え方を述べたあと, それが間違っていないかどうかを訊ねただけだった。 アメリカ人の倫理観を垣間見たとても印象的な経験だった。 そうでなければ,1週間のtake-home exam(ある期間何を見てもいい 試験でたいへん難しい)なんて成立しない。

先生達の中にも,大学以来直面した各種問題(クイズや試験も含む)の答を 未だに出せない人がたくさんいるのではないかと想像する。社会に出ると 正解があるかどうかもわからない問題はたくさんある。 それにどう対処しようとするのか大学時代に経験しておこう。 クラスメイトはそのためにいる。 どうしても助けが必要なら先生に聞きに行けばいい。 もちろん答を教えてもらえるとは限らないが。

専門科目は1年生から教えるべきだ: 確かにモーチベーションを 高めるためにはいいやり方かもしれないが,基礎的な数学・物理・化学の 知識の無い学生さんに,いきなり専門科目を教えても消化不良になるだけだろう。 現に,その基礎科目を全学教育で学んできているにもかかわらず,3セメスタで 教える力学に完璧についてくることができる学生さんは 半分くらいではないだろうか。5セメスタで教える数学で微分方程式の解を 間違いなく求めることができる学生さんも半分くらいか。

それを,もし基礎無しで1セメスタから始めたらどうなるか。 例えばFourier級数と級数の収束条件について,1年生は十分な知識を 持っているだろうか。 高校の物理や化学は暗記科目ではなかったか。 微分方程式は解くものだと知っているか。 物理現象を微分方程式で表現できるか。少し我慢して基礎をまず学ぼう。 その習った時点では理解できなくても構わない。 専門科目を勉強しているうちに基礎知識を使わざるを得なくなったときに, なぁーんだそういうことだったのかと理解できれば十分だ。

もし専門に興味を持ちたいなら,例えば街中の橋等の構造物の形とその 材料がどうしてそれでいいのか,どうして広瀬川の堤防はこうなって いるのか,中州はどうしてあぁなっているのか,青葉通りの信号はどうして 青が続かないのか等,常に疑問を持って思索 (休むに似たる堂々巡り[1]でも 構わない)するだけでも将来の足しになる。 小さい子供だったときのように,解決しないのに常に「なぜ」「どうして」と 想像することが一番大事である。

全学教育科目の,特に文科系科目は無駄だ: そうだろうか。 将来我々は社会をよくする事業に携わることになる。 社会は人間が構成していて,その社会にはある共通した価値観がある。 その価値には,数式や数字では決して表すことすらできないものもたくさんある。 そういうものを科学的に分析したり理解したりすること無しに, 社会をよくすることはできない。文科系科目はいわゆる 人文科学・社会科学に分類される思想と方法論の教授が目的だ。 理科系科目の自然科学と同様『科学』である。本をたくさん読もう。 どうして1930年代のドイツの異常はその当時正常だったのか等など, 物理や数学よりも面白いことを社会科学の授業ではたくさん学べるかもしれない。 先生に恵まれれば・・・それから, 勉強に「無駄」ってことはあり得ない。 そんなところに利益・効率といった概念を持ち込んでも何にもならない。 この「文系科目無用論」は実際に授業評価アンケートに書かれたことがある。 この学生さんは社会に出てからきっと駄目になるだろうなぁ。
第2外国語は無駄だ,英会話を教えるべきだ: 4年生になって 研究室で読まなければならない英語の文章がまともに理解できる学生さんは 非常に稀だ。「読み」すらできていないし,「書き」はもっと 駄目だろう。確かに「書き」よりも「聞く」「話す」を 重視してもいいかもしれないが, ともかくも論理的な構成でできた英文を「読む」ことすらできないのが 今の学生さんのほとんど全員の実力である。朝日新聞(2010/10/20)に 立教大学の鳥飼玖美子女史による英語教育へのコメントがあった。 一部しか引用しないのは誤解を招くかもしれないが 「これまで企業人が外国に放り出されて何とか英語でやってこられたのは、 読み書きの基礎力があったから」。 短い文節にして(論文でも関係代名詞は極力使わない!)文法通り話せば 通じます。一番の問題点は聞く力。正しい発音を覚えてない(聞いたことない)から ということと,頭の中では日本語で考えているということ。 この二つを克服しないと英語での会話はできないだろう。

また大学の英語や第2外国語の教育を 中学・高校の語学と同じように考えてはいけない。 これは,その言葉を話す人や国の文化に触れるためのきっかけを与える科目だ。 教科書や読本の全部を理解できなくてもいいとしよう。 その読本の著者が書いた別の文章を日本語訳で 読むことの方が大事かもしれない。 トーマス マンでドイツ語を習っていて,小説家北杜夫の名前の由来を知る。 どうして北ドイツ人と南ドイツ人は違うのか等などを教えてもらう。 アメリカ南部の文化や気候と人となりについて教えてもらう。 物理や数学よりも面白いことを語学の授業ではたくさん学べるかもしれない。 先生に恵まれれば・・・ でも,1から100までと,こんにちは・さようなら・それいくら・有難うくらいは 第2外国語で言えるようになっておきましょうよ。

文科系科目もそうであるが,広い知識を持つことは,人の「中身」を 豊かにしてくれる。 その知識を得るための時間は決して無駄にはならない。 サークル等で同じような価値観を持った人間同士だけで情報交換をするのも いいが,異なる価値を大事にする人達にも広く会っておくのはもっといい。

配付プリントが英語じゃ困る: 学生さんによる授業評価の 自由記述欄にこう書かれた。4年生になって研究室で読む論文は全部英語だ。 英会話を教えろとか第2外国語は無駄だと言っている学生さんも, ひょっとすると英語の配付プリントはお嫌いかもしれないなぁ。 一体,どうして欲しいの。あくまでも受動的なのか。

実はこの授業は数学で,式が並んでいるんだから英語は拾い読みでも わかると思うのだが。 さらに教科書が英語だ。元々が留学生も対象とした英語による 授業だったからである。当時は教室で日本語は使わなかったため, 日本人の学生さんにはとても評判が悪かった。 教科書は高かったので10冊準備して貸し出すことにしてあった。 板書等は米国流にしたためか,教科書は留学生も借りに来ないが成績も高かった。 さて日本人学生で借りに来たのは,毎年20$\sim$40名くらいの 受講者の10年間で5名未満だ。英語を読むことすら嫌う学生さんが 会話を習いたいとおっしゃっているのが現状である。

締切後に宿題を受け取ってもらえない: 当たり前だ。 なぜ受け取ってもらえると思っているのだろう。わけがわからない。 特別な事情が無い限り締切は締切だ。 親切な先生は受け取ってチェックしてくれるかもしれないが, 成績には反映されないだろう。

いろいろな事情で間に合わない場合には, 事前にそのことを先生に伝える必要がある。それが社会の常識だ。 そもそも宿題は締切日に提出しなければならないわけではない。 締切日よりも前に先生の部屋に行って提出するようにすれば, 急な事情の変化に対処できる。 聞くところによると, 最近の小学校では親も締切を守れない(くせにクレームする)そうだが, そういう文化は大学と一般社会には存在しない。

オフィスアワー以外で面談予約したが,10分遅れたら先生はもう いなかった。不誠実な態度だ: 約束を守れない人, 遅れるかもしれないとわかった時点で連絡をできない人, そちらの方が不誠実ではないだろうか。それが常識だ。

最近,学生さんは会釈すらしない。学生さんには悪いが,顔を覚えられない。 しかし会釈してくれれば「よぉっ」くらいは声を掛けている。 就職担当をやっていてリクルートに来たOBから聞いた話でも, 挨拶とか礼儀・仁義を 守れない人はちゃんとした仕事ができないということだ。 なぜ論語で仁義礼が説かれたかについて, 高校の担任だった漢文の徳永健生先生の還暦時の特別授業で一つの説を聞いたが,特に社会をよくする仕事をして そこで生きていく技術者になるのであれば,やはり礼儀・仁義は欠かせない。

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授業聴講についてのヒント:
ところで最近, 板書を写すのに一々ノートに目を移す人が多い。 目はほとんど黒板2を見たままでノートに書き込むことは そんなに難しいことではない。 板書を写したノートは綺麗である必要は無く, そこには復習時の加筆スペースがありさえすれば, なぐり書きでも十分な価値がある。 専門科目の場合は,綴じたノートではなくA4サイズの ルーズリーフ(レポート用紙)の 表だけに書くといい。綴じたあと見開きの左(裏)は復習に使える。 先生に質問したとき,先生もそこにヒント等を書き込むことができる。 また綴じるときに配付物(ほとんどすべてA4だ)も 一緒にできるので失くさないで済む。 また赤チョークに替えると赤ペンに持ち替えるといったこともあまり効率的ではない。 そこに下線を引くだけで十分。 自分で赤は下線で黄色は下波線とか規則を決めておけばいい。

また,先生がしゃべっただけで板書していないことを メモできる人がいなくなった。社会に出たら,何をメモすべきで何は聞くだけで いいかという指示は誰もしてくれない。 自らの判断で必要事項を書き写す必要がある。 特に講演等のときにメモをとる人がほとんどいないのはおかしいと思っている。

面談等のヒント:
著者のように予約無しでも時間があれば 面談する先生はたくさんいると思うが,先生と話をしたいときは,可能なら 予約しよう。そして,予約した時刻の5分程前には玄関や廊下付近で 待機し,3分程前になったら部屋に向かい入室すればいい。 また予約しない場合も同じだが,入室の際にはドアをノックし, 先生の応答があってから3ドアを開けて入室する。 ドアが開いていてもノックと声掛けは欠かせない。 また,先生が座ってもいいと言うまでは立ったままだ。 ただしお土産は不要である。呵呵。

参考文献

1
南伸坊:
ボーッとしている,
今を生きる--わたしの見方・考え方,PHP, No.708, pp.46-51, 2007.



... 教育1
1, 2年生のための昔の教養教育を全学教育と呼んでいる。
... 目はほとんど黒板2
近頃スライドを使う教員が増えたこともあり,ホワイトボードにしろという 要望が勝ってしまってそうなった。しかしこのボードは光を反射する ことから,前方の左右の席からは反対側の左右端の板書が読めない。 また第1著者の白い綿パンツには黒マーカーの点が複数付いている。 黒板を復活させて欲しいものだ。
... 先生の応答があってから3
先日,他の先生と丸秘の話をしていたところ, ドアノックの音が聞こえたが無視して話をしようとしたところ, ドアが開いて学生がしゃべりかけてきた。「今打ち合わせ中!」と 制止して無視した。ちとイラッときた。


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